日露SAKURAプロジェクト 本文へジャンプ
作品について

戯曲『シベリアに桜咲くとき』は、人間の尊厳を保つことの大切さ、非戦、平和へのメッセージを伝える、ロシア人の目から見た日本人のシベリア抑留生活劇であり、そこで日本人とロシア人がどのように心を通い合わせるかを綴る人間ドラマです。


あらすじ

第二次世界大戦終戦後、およそ60万人にのぼる日本人兵士らが連行強制労働に従事させられた。舞台はとあるシベリアの収容所。過酷な抑留生活のなかで、日本人抑留者は故郷の家族や恋人を思いながら祈りの短歌を詠む。伐採の木の下敷きになり生命を失う者、脱走する者、栄養失調で倒れる者。そのなかで、ロシア人女性に恋心をいだく者も現れた。待ち焦がれた帰国の知らせ。青年は汽車から飛び降り、愛を貫くために帰国を断念する。日本人兵と現地の住民との心の触れ合いに光をあてたヒューマンドラマ。ロシアでよく知られる三遊亭円朝原作「怪談牡丹灯籠」や古典の和歌を引用したイメージ豊かな作品です。


作者:ネリ・マトハーノワ

ロシア・イルクーツク在住の劇作家。明石在住の山下静夫さんの画文集『シベリアの物語』(日露対訳、1993年刊)に出会い、元抑留者で民族学者の加藤久祚氏の『シベリア記』(1993年刊のロシア語版)なども参照にし、日露の和解と協力の出発点になればと願い、日露合同公演をめざし戯曲『シベリアに桜咲くとき』(1996年)を書き下ろす。

この戯曲について・・・

ネリ・マトハーノワ「シベリアに桜咲くとき」日本人抑留者の生活劇
V.M.ポソヒン名称イルクーツク第一出版(2004年)より
戯曲前書き

     長いことジャーナリズムの仕事をしてきて、私は人生そのものがどんな想像力よりも力強く、豊かな物語を生み出すものであるということを確信するに至りました。 冷戦下のイルクーツクであった実話、シルビオ・スクラッチーニ(アメリカ人男性)とリジヤ・マエーフスカ(シベリア人女性)の悲劇の愛の物語を例に出すことができます。この話をもとにして 私の初戯曲作品《アメリカより愛をこめて》が生まれました。オフロープコフ名称イルクーツクドラマ劇場がこの作品をアメリカで二度に亘り公演しました。アメリカ公演は大成功でした。劇場プロデユサー兼支配人のA.A.ストレリツオフ賢明な政治力と、演出家I.ボリーソフの優れた手腕と才能豊かな俳優達のお陰です。次に私は、ブリヤート人のフォークロアを土台とした戯曲 《シャーマンの夢》を書きました。そして、新作戯曲 《シベリアに桜咲くとき》 は私の子供時代の戦争の思い出によるものです。

水のあわの きえでうき身と いひながら
                     流れて猶も たのまるるかな

(露訳直訳: 我々の宿命を苦いと称しても、人生は水の泡の如しであるが故に、すべて大地のはかなさ故に、それでもやはりこの世に生きながらえ、希望が新たに再び私を満たす) 

     短歌、それは日本の有名な五行詩です。遠い東の島国にすでに5-8世紀には存在していました。短歌は単に詩であるだけではなく、愛や自然を読んだ、日本国民特有の伝統的な詩の形式を持つ抒情詩です。

シベリアの抑留者収容所生活の中で日本人抑留者は、祈りの如く、短歌を詠んでいました。 それは悲しいことでしたが、当時のソ連と日本、露日両民族の交流史上、鮮やかな歴史の一頁でもありました。

    ・・・戦争が終わった。私たちのアパートの庭にスチュードベーカー製のトラックが数台停まっていて、日本人兵士たちがトラック修理していました。抑留者は厳しく警備されていたので、アパートの住民と抑留者たちとの交流はありませんでした。

 ある日、私たちのアパートの玄関に日本人がやってきました。私は恐ろしくて声も出ず、立ちすくんでしまいました。私たちはお互いに向き合って立っていました。日本人は痩せて疲れきっていて、何か頼みごとがあるような様子で黙って私を見ていました。私は彼の視線にとても耐え切れなくて、4階の自分の家へ夢中でとんで帰りました。 「ママ、下に日本人がいるの!」 「何をそんなに怖がっているの?」 とママは私を落ち着かせて、「その人は抑留者の兵隊さんで、お腹を空かせていて食べ物が欲しいのよ」 と言って、黒パンを取りだしました。(このパンのために私は大切な配給券を汗ばんだ手に握りしめ半日も行列していたのに。私たち、戦時中の子供は、パンの配給券のことをよく覚えています。それは配給券=パン=命でしたから) ママはパンを手でちぎって割って、「彼にあげておいで」と言いました。私は下に駆け下りました。日本人は眼を軽く閉じて憔悴しきっているように見えました。私は彼にパンを差し出し、彼はとても礼儀正しくお辞儀をして出て行きました。

    日本人はイルクーツクの路面電車を敷設しました。祝祭日には鐘を鳴らしながら街中を走る赤い電車に無料で乗れたので、子供たちは祝日が来るのを楽しみにしていました。私はしょっちゅう敷設現場に行きました。ある日、そこで働いているひとりの日本人がそばに寄ってきて、手にふたつの欠片を押し込みました。「パンをありがとう」 彼は小声で言うとレールの上にかがみ込んで働き始めました。 私の手のひらには、レンガの形をしてその上にわけの分からない象形文字が書かれている行軍用の乾パンがふたつのっていました。それを食べることは出来ませんでした。ただ珍しくて、嬉しくて、見ているだけでした。

    リシハの日本人墓地は広がっていきました。生き残った日本人は帰国しました。私は時々あの兵隊さんのことを思い出します。生きているのだろうか、それともシベリアの大地に葬られているのだろうか?

     加藤九祚氏の回想録(『シベリア記』)を心の動揺なしには読むことは出来ません。加藤氏は抑留体験者で今は有名な作家となっています。

《・・・俘虜は体格検査によって1級から4級までに分類され、1級と2級はふつうの労働につき、3級は軽作業、4級は収容所内での清掃や炊事、デゾカメラ(熱気消毒室)の火焚きなどにあたることになっていた。検査の要領は、まず俘虜番号順に上半身裸になって軍医の前に立ち、以前の検査で言い渡された「級」を自分でいう。(もちろん、そばに帳簿を見る人が座っている)すると軍医は、正面から胸のあたりの肉づきとつやを点検し、それから後ろ向きにさせ、パンツを下におろさせてお尻の肉づきを見る。このときは必ずお尻の肉を手で引っ張り、どのくらい肉がついているのかを見るのだった。 軍医は聴診器ひとつなしでも、このお尻の肉の具合によって等級を定めることができた。体格検査は原則として月に1度ずつ行なわれた。・・・1年後にはすでに抑留者の大部分の人達が3級と4級になっていた。日本人は寒さと劣悪な食事と過酷な労働に耐えられずに死んでいった。》 

    有名な日本研究家で歴史学者のS.I.クズネツォフ教授が、山下静夫画伯の画集を見るよう勧めて下さった。画には作者の文章が添えられていた。 《我々の住居は黒い防水シートのテントだった。1945年、午前10時、気温-45、朝と夜の星が瞬く厳寒の中、我々の収容所生活が始まる・・・》 辛い思い出を吐露した画集のページを捲るほど、過酷なタイシェット収容所で生き延びるために戦う、勇敢で不屈の人達に対する尊敬の念で一杯になります。泣き言などありません。絶望の淵にある時でさえ、彼らは短歌を詠み、新しい短歌を作ることで、自分の精神を支えていました。彼らが生き延びるのを助けたのは、シベリアの人々との交流、思いやりと大らかな心を持った人々との心温まる時間でした。若さが決断を与え、愛が芽生えました。それは帰国への思いよりも強く、40人の日本人がカンスク(クラスノヤルスク地方の小都市)に留まりました。

    戯曲「シベリアに桜咲くとき」 執筆の前には歴史的資料を調べ、ロシア人や日本人の書いた回想録を読み、さらに自分を日本の精神で満たさねばなりませんでした。改めて、芥川龍之介や川端康成、彼のノーベル賞受賞記念講演「日本人の世界観」、安部公房、自衛隊駐屯地で自決した三島由紀夫を読み直し、黒澤明の天才的な映画の数々を、そして世界中を魅了した有名な「羅生門」を思い出すことが必要でした。山下静夫氏のロシア人への呼びかけの言葉で終わりにしたいと思います。

    《抑留者になったことは辛くて悲しい出来事ばかりではありませんでした。私はロシアの人々の親切と思いやり、それと初夏のシベリアの美しい光景を決して忘れることはないでしょう。みざくら(チェリョームハ)の花を、私たちはロシアの桜と呼んでいました。日本人もロシア人も、このような不幸を決して繰り返さないためのすべてのことをやらなければなりません。この世に平和と美しさがありますように。》

これが私の戯曲に書かれていることです。 

   学術コンサルタントとなって下さったS.I.クズネツォフ教授、日本で 《最も優れたチェーホフ翻訳家》であり、数多くの日露文化交流に尽力された中本信幸教授、私の戯曲を和訳された中本教授の教え子、また私のインタビュー記事を日本の朝日新聞(発行部数850万部)に掲載された戸田(ひろし)記者に、心から感謝申し上げます。

(訳:安西美智子)








   

Copyright(c)2011 Nichiro SAKURA Project

inserted by FC2 system